南村製糖

2代目 南村 和弥 の想い

2代目 南村 和弥

 30年近く前、進学のため島を出た時は、もう島に住むことはないのだろうなと漠然と考えていたと思います。当時、単純に都会に憧れていたのか田舎に否定的になっていたのかは、今となってはわかりませんが。

 鹿児島市内で高校に通い、その後東京で進学・就職、そして結婚と20年生活しました。仕事は夜は遅くまで、土日はないというくらい忙しかったですが、仲間にも恵まれ、それなりに楽しくやってました。

 転機となったのは、娘の入学と両親の高齢それから実家の職業変更でした。仕事は充実していましたが、家にいる時間をあまり作れなかったためか、娘がなかなかなついてくれませんでした。その娘が、そろそろ小学校入学。このままでよいのか?
一方、両親とも還暦となり、帰島を踏ん切るならこのタイミングしかないと思い始めました。(帰ってみたら両親ともバリバリすぎて、衝突することも多く、すこし早かったかと・・・まあ、嬉しい誤算ですが)

 最終的に決定打となったのは、両親の仕事でした。私が島を出た時は、園芸農家(小菊栽培)を主に営んでいたのですが、今から15年程前に黒糖製造をはじめていました。季節作物なので通年の収入が得づらく、相場に左右されるため年度による売上の変動も大きい園芸農家から島の特産物を製造・販売することを生業としはじめました。私の父方の祖父が戦後、黒糖製造をしており、ある程度製造のノウハウがわかっていたことが根底にあったのではないでしょうか。
とはいっても、50歳を過ぎてから新しいことをはじめるのは、並大抵のことではなかったと思います。ただ、いきいきと働いている両親の姿と、原料から自分がつくった商品を喜んでくれる方へ届けるという商売に魅力を感じて、帰島を決意したのでした。

 島に帰って、10年弱経ちました。

 家業を手伝い(修行?)ながら、朝夕や家業が忙しくないとき、休みの日に自分でもマンゴーやごまなどを栽培するという生活です。
家業としては、さとうきびを1日かけて収穫して、翌日1日かけて製糖し、その翌日、袋詰めや梱包・発送というのが基本的なルーティンで、その間に、農場の管理や植付け、または黒糖以外の商品の製造などが入ってきます。合間を縫って物産展などに出店もしています。天候によってもその日の仕事がかわってくるし、人手も少ないのでなかなか在庫が持てず、大口の注文が入ると収穫と製糖を手分けしたりと、なかなかスケジューリングは大変ですが、自分たちが直接つくったものを喜んで下さる方がいるという嬉しさは、何事にもかえられません。

 私の生活は、だいたい7:30~17:00くらいが家業手伝いで、始業前の朝や仕事が終わってから暗くなるまでが、自分の畑の世話。帰って、焼酎飲みながら家族で夕食をたべ、夜9時くらいにはたいがい寝ています。週に2日以上は、休みという名目で、自分の時間をとってはいます。
帰った当初は、妻と娘と3人で島内観光したりもしましたが、なにせ小さい島ですので、2回もまわれば、もう十分。娯楽施設もないので、休みとはいっても畑にいることが主です。娯楽施設がないかわりに、島の人は自分たちで楽しみをつくることが多く、スポーツ大会や飲み会等、結構家を出る機会も多くあります。私も島内の観光物産協会に所属して、各種催し物の企画や準備に、その後の反省会という名の飲み会にと、わりとぱたぱたした生活をしています。とはいっても、家と仕事場と遊ぶ所と一番遠くても片道20分程度。職・住・遊が近いのも島の魅力の一つだと思います。

 『自分たちが作った商品を、自分たちの手で喜んで下さる方へお届けする』

というのが、この仕事の魅力ではありますが、将来的には、今より美味しく魅力的なものをつくり、より多くのお客様へ届けられる、そのような会社にしていきたいと思います。そのための栽培・製造の体制づくりや、商品パッケージの改良や新商品の開発。 それから、やはり自分たちだけでお客様へ届けるのも限界があるので、商品を取り扱って頂けるお店や会社様への営業と、今からも課題は山積みですが、自分たちで体制や仕組みをつくることも楽しんでいきたいと思います。

南村 和弥(ナムラカズヤ)
1971年生まれ。妻と中学一年生の娘の3人家族。両親とは同居ではないですが近くに住んでます。最近、本を読んでいないのが反省点です。

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